ご案内

一本の木の下から流れだす小さな水脈がそれだけ大きな田んぼを潤しているのを見て、いつも感心していた。 最近、丘の上に人家が増え、木を伐り、森がなくなると、その泉の水も枯れた。
木の多い山は川をつくるのだ。 近ごろ、ぼくは「山買い人」あちこちの山を見にいく。
鹿児島は造林率が高く、半分以上の山が杉山だ。 杉山のふもとによく干上がった川を見る。
その山は杉を植える前は雑木林で、そのころは川が流れていたのである。 この逆をやればいいのだ。
建設省や林野庁の黒い手のおよばない自分の川をつくろうと思っている。 ぼくが生きている聞にそれが実現するとは思わない。
何十年、何百年もかかるだろう。 次の世代の人がそれを引き継いでいけばいい。
そうしてできた川が国や行政の支配下から抜け出せるかどうかは分からない。 そのことでも固と闘わなければならないだろう。
今の日本では「自分の川」を自分でつくる以外にきれいな自然の川のそばに住む方法はないのである。 丹波の入り口の丹波に住みついて22年になる。

勤めていた女子短大の教え子のひとりが、この町から通ってきていたのが撮で、駅前の空き家を借りて住みはじめた。 4キロも離れた荒れ地を開墾して野菜を作った。
自転車の後ろに鍬をくくりつけて、毎日のように畑へ通っていた。 畑で野菜を作り始めて、野菜は完全自給自足することを決意したのであった。
現金収入がないから、出費を抑えなければならない。 友人が訪ねてきたことがある。
昼に妻のヒデコが加薬飯を焚いた。 ご飯の中にバ裁がはいっていた。
加薬飯に人参がはいっているのは当たり前なのだが、うちの畑に、その時、人参はなかったのだ。 突然のぼくの怒りで、友だちは白けてしまった。
それ以来、ヒデコも意地になって、野菜は買わない。 212年間、野菜を買ったことがないのだ。

これは、農家でもめずらしいことである。 冬や春に、トマトや胡瓜を買う農家は多い。
だから、農業者の家庭でも、旬の喜びを知らない。 初物の感動がないのだ。
ている子どもたちは、覚えていると思う。 さて、この山聞の小さな町に、ぼくのようなひねくれ者が、22年間も住みつづけることは並大抵のことではない。
嫌がる信用金庫の支店長に詰め寄って、住宅ローンを組み、アトリエ代わりの倉庫付きの農家を買うことができた。 近所に住む春ちゃんが、ただで畑や、小さな田んぼまで貸してくれた。
春ちゃんは、お孫さんもいる60過ぎの婦人である。 才能薄いぼくだって、これほど恵まれると、思うように仕事ができた。
それは、これまでのような、自然への憧れではなく、本物の土に根ざした絵が描けたからだ。 版画のコンクールでも受賞がつづいた。
出した絵本は次々と大きな賞をいただいた。 タクマさんは、そんな時、病魔に侵され、53歳の若さで帰らぬ人となってしまった。
ヒデコは、ぼくと一緒になるまでは、こんな田舎で生活するなど想像もしていなかった。 西多摩郡日の出村(現・東京都日の出町)へ家を建て、農耕生活を始めたのだ。
ぼくのように、現金がなくて野菜は買わないと宣言する必要はなかった。 ぼくらが丹波へ引っ越す前のことである。

征三夫婦が2人の子どもを残して、外国旅行の留守番のため、ぼくとヒデコは日の出村へ出かけていったのだった。 朝、家の前に野莱を積んだ車が止まった。
ナスやトマトを買ってくれと言うのだ。 畑には征3が作っている野菜がいっぱいあるから、ヒデコが断ると、と不満げに帰っていったものだ。
つまり、ぼくが征三によく似ているから、女房だけが入れ替わったのだと思ったわけだ。 それから20年近く飴って、ぼくが2,000坪の土地を買い、米まで作りはじめた時、征三は、田舎暮らしの先輩として、ぼくをたしなめたものだった。
広い畑で、荒い息をつきながら、鍬を振るうのだ。 田んぼの中で、全士身泥だらけになって、暑いながら草とりをしている。
農薬を使わない田んぼには、ヒメゲンゴロウ、コシマゲンゴロウ、タイコウチなどの水棲昆虫が、草とりのぼくの手を逃れて、泥の中にもぐりこむのだ。 安全な栄養を与えて、毎日まいにち長い時聞をかけて味つけをつづけてきたのだ。
ぼくの「鴨鍋」が放映されると、という抗議の電話があった。 ヒデコの友人が遊びにくるから、自慢の鴨鍋をご馳走してあげると言ったら、と言われた。
シャプシャプの肉だって、生きている牛を殺したものだ。 たくさんの命をいただいて、ぼくたちは生きているのだ。

野菜だって、魚だって命あるものなのだ。 だから、無駄にせず、美味しく食べてやらねばならない。
この世の中には、生命を慈しみ感謝して生きている人と、命を踏みにじっても気づかない人がいる。 日の出村でも、水源地である美しい谷を埋めたてて、ゴミ処分場が造られている。
征三は今、金のために、平気で自然を壊そうとする人たちと闘っている。 幼かったころ、2人の心をいやしてくれた高知の山村の生活が、アトリエの前は、200坪ほどの畑が広がり、畑の横には、ぼく専用の便所と、大きな鶏舎が建っている。
(併蹴がいるので、中に池まで掘ってあるのだ〉今、鶏舎の横から、白猫が何かをくわえて、母屋の方へ走った。 白猫はミニケルという名のわが家の雄猫である。
いつもとちがう走り方に、ぼくは我に返ったのだった。 棋をくわえとるのと、ちがうか?うちの鶏舎が大きいから、手に負えなくなった雄鶏や兎などを入れてほしいと頼まれることが多い。
迷いこんできた伝書鳩を、小さな鳥簡で飼っていたけれど、可哀想だからと、うちの鶏舎へ持ちこまれたのは一週間ほど前のことだった。 鶏舎には、毎朝、台所の生ゴミを入れるし、畑の雑草を抜いて、一輪車で運び入れ、鶏糞の混じった堆肥を畑や田んぼへ運び出すために、何度も戸を開けている。
だから、伝書鳩も、そのたびに、アトリエの屋根へ飛んでいって、周囲をながめまわしたり、田んぼの落ち穂をついばんだりして、自由に外出を楽しんでいるようであった。 帰ってきた時に閉まっていると、戸の前でのんびりすわっていることがある。
そこをミニケルに襲われたのにちがいない。 ぼくは、裸足でアトリエを飛び出して、猫を追った。

大声に驚いて、あの気の弱い猫が、鳩を放してくれないものかと、思いきり叫んだ。 猫は母屋の前を通り、垣根のない敷地から外へ走り出た。
農道を隔てて、今は使っていない牛小屋が建っている。 猫は、そこへ飛びこんだのだ。
つづいて、ぼくもはいっていったら、猫は隅でうずくまっている。 奪い取ってみると、鳩は見事に心臓をひと暁みにされて絶命していた。
まだ暖かい身体から、ていねいに羽根を抜いて、毛焼きして、すぐ料理にかかった。 今までに、七面鳥、ホロホロ鳥、合鴨、鶏、烏骨鶏、チヤボなどの料理をしてきたから、鳩なんか何でもないことだ。
味は絶品であった。 竹薮から田んぼへ舞い降りてくる山鳩の艶やかな姿を見ただけで、生つばが口の中いっぱいに広がるのだった。
それから、2週間ほどして、来客があるので、鶏のすき焼きをすることにした。 一番おいしそうな鶏を、鶏舎から捕らえてきた。
血抜きをして、羽根をむしっていた時だった。 ふと気が付くと、ぼくのすぐそばで、見知らぬ中年の婦人が立って、ぼくの手元をのぞきこんでいるではないか。
顔を上げると、彼女が、ぼくの留守中に、伝書鳩を持ってきた人にちがいない大きな雄鶏をつぶしていて良かった。


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